智恵子の紙絵とその軌跡
高村智恵子
 20歳
明治19年 5月20日、福島県安達郡油井村字漆原に酒造業 
長沼今朝吉の長女として誕生。のち二弟五妹が生まれる。

明治36年 17歳 町立福島高等女学校を卒業。上京して日本女子
大学校普通予科に入学。翌年家政学部に進む。

明治40年 21歳 大学校を卒業。反対する両親を説得して東京に残り、
洋画家を志して太平洋画会研究所などに通う。

明治42年 23歳 高村光太郎が欧米の彫刻修行から帰国する。

明治44年 25歳 平塚らいてう等が女性雑誌「青鞜」を創刊。
表紙絵を描く。ゴーガンやセザンヌに傾倒、乗馬にも
興味を持つ。大学校の先輩に柳八重の紹介で光太郎を訪問

明治45年 26歳 装飾美術展や太平洋画会展に作品を発表。
田村とし子の「あねさま」と共に「うちわ絵」陳列会を催す。
完成した光太郎アトリエを再び訪問。犬吠岬に写生旅行、
光太郎に出会って一緒に絵を書いたりする。

大正2年 27歳 夏光太郎と上高地で油絵製作。婚約。

大正3年 28歳 光太郎が智恵子への愛の詩篇を含む処女詩集
「道程」を自費出版。アトリエで二人の生活をはじめる。

大正4年 29歳 光太郎の収入は父光雲の下請仕事や僅かな稿科に
過ぎず、芸術精神の日々は充実しながら窮乏を続ける。

大正7年 32歳 父長沼今朝吉が没する。その死はのち長沼家や
智恵子の生活に影を落とす。智恵子には以前から肋膜
その他にいつも故障があり、一年のうちの幾月かは故郷で
過ごした。

大正10年 35歳 光太郎が智恵子のためにヴェルハアランの愛の詩集
三部作を訳し、その一つ「明るい時}を刊行する。

大正12年 37歳 関東大震災。前後数年、アンケートや求めに応じて
社会への積極的な発言や感想の発表が多い。
このころから機織をはじめる。

大正13年 38歳 光太郎の詩も社会抗議を含む「猛獣篇」時代に入り、
智恵子が熱愛した木彫小品を作りはじめる。

昭和2年
『箱根
大涌谷にて』


智恵子が健康
だった頃40歳
すぎても、10代
の少女に見えた
という。
昭和4年 43歳 父の死後、家庭内の問題や経営上の不振から傾き
かかっていた長沼家がかさなる助言にもかかわらず倒産、
一家は離散する。珍しく健康な数年のあとの智恵子の体調
もまた乱れる。

昭和6年 45歳 夏、光太郎三陸旅行。その留守の頃から精神分裂症
の兆候が現れる。翌年、アダリン自殺未遂。

昭和8年 47歳 高村家に入籍。光太郎と郷里に墓参、東北の温泉
めぐりをしたが病勢はかえって進む。
『塩原にて』

発病後の智恵子を
写した唯一の写真
回復を願う東北温泉
めぐりの最終地。

昭和10年 49歳 自宅療養が危険なり南品川のゼームス坂病院に入院

『ゼームス病院』

南品川6丁目に
この病院はあった。
15号室南東に
ひらけた2階の
出張った6畳が
智恵子の病室で
あった。
昭和11年 50歳 病状やや落ち着くが一方では結核進行のやつれが
目立つ。紙絵を作り始める。光太郎も喀血。

昭和12年 51歳 躁鬱状態を除いて紙絵制作が続く。光太郎にも智恵子
詩篇の絶唱が次々に生まれる。

花と花瓶 バナナ
昭和13年 52歳 夏頃から高熱が続くが、熱の低い時には紙絵制作を
休まない。秋には衰弱が加わり、10月5日夜、光太郎にみと
れながらその生涯を終わる。遺作紙絵千数百点。

昭和16年 光太郎詩集「智恵子抄」刊行。太平洋戦争開戦

昭和20年 アトリエ戦災炎上。光太郎は岩手県花巻に移る。戦後独居
自炊の山林生活。数々の智恵子の詩篇も生まれる。

昭和27年 光太郎は十和田湖畔に建つ裸婦像製作のため東京に帰る。
翌年智恵子の面影をとどめる裸婦郡像完成。

昭和31年 4月2日、光太郎没する。73歳。智恵子とともに東京染井の
高村家墓地に眠る。


展示場所 先人館

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